Soup Friends
Soup Friends Vol.34 / 佐々木芽生さん
──佐々木監督がNYでよく召しあがるスープ(汁物)があれば教えてください。
元気がある時にはチキンを炒めてスープストックにします。昔は丸鶏を買ってお腹の中にハーブやスパイスを入れて出汁をとりました。できたストックは、製氷皿に入れて冷凍庫で固めておきます。大きな器に入れてしまうと、使う時に割るのが大変ですが、製氷皿を利用して小分けにしておくと、スープを作りたい時にさっと取り出して簡単にスープができるので便利です。キャベツや白菜、椎茸を入れて、中華風のワンタンスープも作れますよ。
──日本では価格が高い、米国ならではの食材を活かしたスープが楽しいですね。
──お仕事柄食事が不規則になることもあると思いますが、ロケに行かれる際の食事はいつもどうなさっていますか?
──佐々木監督の作品は、いつも独自の配給方法をとっていらっしゃいます。佐々木監督初監督作品となった前作『ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人』公開の際には、有志を募って、ボランティア活動から配給が実ったそうですね。
最初は、本作が日本に関係のない作品であることと、日本における現代アートの位置づけにはまだまだ高いハードルがあることから、配給会社の方々にも難色を示されました。しかし実際に蓋を開けてみたら、これだけ多くの方々に観ていただけたということは、実はアートに近いところで生活をしているという国民性が、日本人の気質として備わっていることが実証されたのではないかと感じました。
──長年、日本から離れて暮らしていらっしゃるからこそ、より痛感される部分もおありなのでしょうか?
──日本人である佐々木監督が本作を撮ったことで、少なからず作品にも影響している部分があるとしたら、それはどのようなところだと思われますか?
ハーブとドロシーの映画を撮ろうと決めた時も、ふたりを撮ろうとは思っていましたが、アートの映画を撮りたかったわけではありませんでした。ハーブとドロシーが集めていたものがたまたまアートで、2人がアートコレクターだったというだけで、もしかしたらふたりが鉄道マニアだったら違う映画になっていたことでしょう。しかし今振り返ってみると、それがアートだったことから見えてくるものもたくさんありました。「コンテンポラリーアート」(現代芸術)や「コンセプチュアルアート」(現代芸術の潮流のひとつで、思想性や観念性を重視した芸術)といった、一見難しそうなアートを集めてきた人たちの話を、アートに明るくない私が撮れるのかしら?と、何度も思いましたし、そもそも私自身にとってもコンテンポラリーアートは敷居が高いものでした。しかし製作過程において、「アートって何だろう?」ということを私自身が考えていくことになります。前作ではなるべくアートのことがわからない人にも愉しんで観てもらえるような間口の広い作品にすることを心がけましたが、続編ではより「アートとは何か?」という課題に、意識的に取り組んでみました。実際にいろいろ考えさせられましたし、私のなかでもアートに対する考え方が、どんどん変わっていきました。
──続編『ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの』の製作過程で、「コンテンポラリーアートの力」を佐々木監督ご自身が実感されたことがあったそうですね。
──前作と続編の2作品を通じて、佐々木監督が感じるハーブとドロシーの選ぶ作品の素晴らしさはどのようなところにありますか?
──アート作品を観る時、通例としてアーティストが何を考えて作ったのかやその内容にフォーカスされがちですが、続編『ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの』では、アートはアーティストの力だけで成り立つものではないことが描かれていますね。
──もともとハーブとドロシーにとって作品を手に入れることが喜びだったと思いますが、それらが自宅を出て美術館で日の目を見ることは彼らにとってどう感じられたのでしょうか?
──50作品を50州に寄贈する「50×50フィフティ・バイ・フィフティ」プロジェクトにおいて、作品を寄贈されることへの関心度には、米国内でも州によって差がありましたか?
──州によってアートの育まれ方も受け取り方もまったく違うのですね。しかし、どの国でも本作が一様に受け入れられるのは、ハーブとドロシーのピュアな愛情や熱意に対して、誰もが共感できる部分があるからではないでしょうか?
──ちなみにコレクションの寄贈後も、おふたりの手元に残っている作品はあるのですか?
──製作自体についてお伺いします。撮影をしてから編集をするまでどのくらいの期間がかかりましたか?
──佐々木監督は普段、どのような編集スタイルをとっていらっしゃるのですか?
まず編集のプロセスとしては、編集者のバーナディンと私のふたりで同時にすべての映像素材を観ます。特にインタビューの部分は停めながら観たりして。前作の編集時は彼女と同じ場所で一緒に観ましたが、続編の編集時には、彼女がNYから車で3時間くらいのところに引っ越してしまったので、離れた場所でしたが同時期に観て、ノートを取り、「ここはこうだったね」「ああだったよね」みたいな擦り合わせをしました。「あのシーンがすごく面白かった」「こんな台詞を言ってたよ」「これ何かに使えるね」などと話しながら、ブレインストーミング(自由な雰囲気で他者を批判せずにアイディアを出し合う議論方法のひとつ)をして、大体の構成を考えていきます。この映画のメッセージはなんだろう?と、答えが見つかるまでは何をしていても常に考えながら、撮影や編集をしています。すごく難しいのは、「Aだと思っていたけどBだった」なんていうこともあるし、「AもアリだけどBもアリだよね」みたいなこともあって、一概には言えません。そこがドキュメンタリー映画の面白いところでもあり、難しいところでもあります。だから、本当に撮った後に編集室に持っていってみなければわからない。繋ぎながら「うーん、どうもこれじゃ面白くない」とか「ここ全然ダメだね」とか「ここもっと何とかならないの?」というプロセスの繰り返しです。しかも続編の製作途中だった2012年の夏、ハーブがこの世を去るという悲しい事態に見舞われます。ここで大きく筋書きが変わりました。そして、編集終了間近の10月頃、意を決して追加撮影を行いました。筋書き変えるとなると、欲しい映像が変わってきます。こんなシーンが必要、あの要素が足りない、このカットを外すなら差し替えるシーンは?などと、最後の最後まで1カット1カットを紡ぐ作業でした。とりわけオープニングのシーンでは、当初予定していたカットでは弱いと判断し、急遽11月の終わりに「ヴォーゲル・コレクション」の展覧会を見にくるこどもたちが乗ったスクールバスから、こどもたちが降りてくる2カットだけを撮りに行きました。そのアレンジだけでも大変な苦労で、バス会社や学校の先生、美術館と何度も繰り返し電話で話しました。それがどんなに大変な作業でも、そのシーンがあるのとないのとではまったく違います。それだけ映画のオープニングのカットは、本当に大切なのです。映画の最初の1分でその映画監督のセンスや力量がわかるので、オープニングは命です。ですから、場合によっては作品の全体像が見えてからオープニングを撮影することもあるくらいです。
──続編『ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの』では、クラウド・ファンディング(インターネットを通じて一般人から出資を募る活動)で資金集めをなさったそうですね。この手法を選ばれた理由をお聞かせください。
──出資した個人にとっても、一緒に作り上げるという感覚を共有することができて、とても嬉しいことなのかもしれませんね。また、ほかのアーティストの方々も勇気づけられますね。
──佐々木監督は前作のインタビューで「困難や障害にぶつかった時、人間は最もクリエイティブになることができる」とおっしゃっていました。公開前は日本では受け入れにくい題材では?と懸念される声も多かったなか、実際に多くの観客を動員されて、続編ではクラウド・ファンディングという事例を打ち立てました。このように佐々木監督をポジティブに突き動かすエネルギーはどこからくるのでしょうか?
でも今回の続編の製作過程で一度「やろう!」と決めて、たくさんの人を巻き込み、けしかけておきながら、「これは違う!」という結論に辿り着いたことが何回かありました。どちらかと言うと、自分がやろうと決めてやり切ることは学んできたつもりでしたが、踏みとどまったのは初めての経験でした。そこでハーブとドロシーに言われた言葉を想い出しました。それは「作品が認知されればされるほど、あなたの周りに隠れた地雷がどんどん増えていくから、くれぐれも踏まないように気をつけなさい」という助言でした。その地雷はさまざまな形でやってきました。映画をヒットさせるためとか、こうすると収益になるとか、誰々から支援が入るとか、いろいろな方があらゆることを言ってくる。でもそのたびに、肝に銘じて立ち止まるようにしています。この選択をすることで、大切なことを犠牲にしてないか?今はいいかもしれないけど、長い目で見た時に、自分にとって、映画にとって、周りの人にとって、良いことなのか?と。「じゃあ最初から考えてよ」という声が聴こえてきそうですけど(笑)。元来すぐに飛び出してしまう性格なので、みなさまにご迷惑をおかけしている部分も多々あると思います。でも立ち止まるべき時には、カンカンカンカンと心のサインが鳴り始めるのです。そういう時には素直にやめるようにしています。