Soup Friends
Soup Friends Vol.32 / 山下朝史さん
──フランスでよく召しあがるスープがあったら教えてください。
──山下さんがよく召しあがるスープ(汁物)があればお聞かせください。
──日本の野菜をフランスで作るというのは、気候も土壌も違って大変だと思います。どのように実現されたのですか?
──なぜ農業を始めることになったのですか?また、その場所として「シャペ村」を選ばれたのはなぜでしょうか?
──そもそも盆栽で、なぜフランスに渡ることになったのですか?
──すると、美術の影響から盆栽にたどり着かれたのですか?また、盆栽から農業に活かされている部分はあるのでしょうか?
そもそも盆栽というものは、不自然なんですよね。小さな鉢に大きな木を植えて育てるわけですし、針金を巻いて枝を下ろしたりね。日本における植物を活かしたアートと言えば、「盆栽」と「生け花」がありますよね。それぞれの表現の先で何が異なるのかと言うと、「生け花」は植物を切ってしまうので、未来に命がつながらないわけで、ある種の刹那的な美しさを秘めた「一瞬という時間」を表現する芸術と言えます。一方、同じ時間を表現するものでも、「盆栽」は百年や千年という「ボリュームのある時間」を表現する芸術なんですね。
「盆栽」と言うのは、たとえば、森の中で、種が落ち、芽が出ると、「頂芽優勢」と言って、一番先に出た芽は陽の光を浴びようと、ぐーんと上に上に伸びていきます。すると、鉛筆のような形になるんですね。ところが年月を重ねて行くと、今度は傘を開いたような形になり、葉っぱの表面積を広げて、太陽の光を一身に浴びようとします。つまり、「盆栽」で枝に針金を巻いて下ろすのは、下ろす行為によって「数十年の時間の経過」を表現しようとしているのです。
また、「盆栽」で学んだ「剪定(せんてい)」という考え方も、野菜づくりで「間引く」という作業に活かされています。つまり、枝が混みすぎて風通しが悪くなると、元気がなくなってしまうので、いかに風通しを確保し、木の力を落とさないようにするかに注力するということです。つまり、「盆栽」はかなり不自然な世界にありますが、自然のことを相当に知っていなかったら、あの究極に不自然な環境下で健康に木を育てることはできません。「盆栽」の不自然さと同様に、農業も故意に栽培しているわけですから不自然なものなのです。不自然なだけに「バランス感覚」というものがとても大切になってきます。たとえば、バランスのとれた畑で作られた作物で作るスープは、「バランスのとれたスープ」になります。それは塩や胡椒などの調味料とのバランスを超えた素材自体の「バランス」というものが、すでにそこにはあるからです。そういう作物を手に入れるのは、とても大変なことだと思います。
──農家にもいろいろなタイプの農家があると思いますが、山下さんはどのように今のようなスタイルを確立されたのでしょうか?
──それが、山下さんの農業に対する「こだわり」なのでしょうか?
──それでは、山下さんが考える「おいしい野菜」というのはどのような野菜なのでしょうか?
また、意外と知られていないのは、自然食品店で販売されている土つきの野菜が、いかにも収穫仕立てで新鮮なように見えますが、土をつけたままだと、土が野菜の水分を吸ってしまうので、どんどん鮮度が落ちていっちゃうんですよ。綺麗に洗った大根と、土をつけたままの大根を数時間後に比べてみてください。まったく鮮度が違いますから。なるべく買いだめなどをせず、その日のうちに使ったほうがいいということは言えますが、私が冷蔵庫を使う理由のひとつには、一旦成長を止めるという目的があります。よく、採れたての野菜が一番美味しいと言われたりしますが、一概には言えません。たとえば、かぼちゃは収穫後25日くらい経った頃が一番美味しいと思います。小松菜やほうれん草も、朝採って昼に食べるよりも、前日の夕方に採って翌日の昼に食べるほうが美味しいんですよ。つまり、野菜の立場になってみれば、もしかしたらご機嫌に暮らしていたところを突然に引き抜かれてしまうので、野菜もびっくりしているかもしれないし、もしかしたら頭にきているかもしれないですよね。劇的な環境の変化に対応(順応)しようとしているのか「たぎったような味」に感じるのです。その「たぎり」を少し鎮めてあげてからのほうが、私はおいしく感じるのです。それを感じ取れるひとはほとんどいないかもしれませんけれどね(笑)。
──その研ぎ澄まされた感覚はいつ頃からどのように身につけられたのでしょうか?
大半の農家は野菜を出荷した段階で仕事は終わりだと思います。少し意欲的な農家は、シェフが使いやすい野菜を作ってあげたりして、今のところそれが最先端かもしれません。しかし、わたしの場合はそこからもう少し先までを考えています。私の野菜は、シェフの先にいるお客さまに喜んで食べられているのかしら?と思うのです。私の野菜を使っているシェフたちは、オピニオンリーダーですから、一般のシェフたちの目標であり、一般のシェフよりも2〜3歩先を行っています。すると、私は彼らのさらに先を歩いていなければ「おいしい野菜」をベストな状態で準備できないわけです。最近の潮流として、「おいしい野菜」=「有機野菜」という図式が通説のようになっていますが、先日フランスのテレビ番組の取材を受けた時に、聴き手の方が「山下さんの有機野菜は…」という紹介の仕方をしたところ、シェフが「いや、ムッシュー山下が作る野菜は有機野菜ではなくて、さらにその先を行っている野菜です」というような紹介をしてくれました。
たとえば、山下農園のカブにはヴィンテージがあります。カブの専門農家もあるなか、おいしかろうとまずかろうと、「カブとはこういうもの」という一定の水準があって、形が揃っているとか、今年の収量は多かったとか少なかったなどという評価基準になるのですが、私が作るカブはまったく違う次元のものなのです。もしも、カブの専門農家の方が私のカブを食べて、「えっ?カブなのにこんな味がするの?」と思ったとします。そうしたら、彼らが今までとは違うカブを作る可能性が出てきますよね。本当にその味が出せるかどうかは別として、食べなければ知らなかった味は、再現のしようがないわけですから。
私の過去を振り返ってみてひとつだけ言えるのは、ただやみくもに数を重ねれば成功につながるわけではないということです。失敗のうちの99%は失敗のまま終わっています。何か大きな成功をしたければ、小さな成功を積み重ねるしかありません。一発逆転などないのです。
──山下さんご自身では、どのような部分が他の農家と違うと思われますか?
──山下さんが作る野菜がお客さまに喜ばれているかを、どのように確認されるのですか?
──山下さんの野菜を預けるシェフを選ばれる時に、大切になさっていることは何ですか?
──山下さんから見て、シェフたちの食材に対する理解度というのは、どの感覚が優れていると良いと思われますか?
──山下さんがこれまでに感動したひと皿は、いつ食べた、誰の料理ですか?
おいしいものを食べたければ、最高級の食材が集まる東京を勧めますが、良い食事をしたかったら、パリにしたら?と言うようにしています。なぜかと言うと、外食というのは自分の家を出てから帰ってくるまでのすべての体験を含めて、外で食事をするという文化なので、東京の外食文化も水準は高いのですが、お皿の上だけで勝負をしようとしている感じがしてしまう点で、パリには適わないなと思います。