Soup Friends

Soup Friends Vol.21 / 松嶋啓介さん

フランスにてチャリティディナー「ASSO SOLIDARITE CHEFS POUR LE JAPON」と、Soup Stock Tokyoと共にチャリティプロジェクト「SOUP DE FRANCE」を呼びかけたフランス料理のシェフ松嶋啓介氏に、経緯や思いなど共に「食」へのこだわりをうかがいました。

──まず初めに、Soup Stock Tokyoをご利用されたことはありますか?

はい。一人で品川駅のスープストックを利用したことがあります。確かフランスから帰ってきた時でした。

──ご利用いただき、有難うございます。松嶋さんにとって、スープに対してはどのような存在ですか?

スープはどちらかというと優しい存在だと思っています。前菜で、さらっと、胃にや体に優しく入ってくるイメージですね。ソースにするよりも、より優しいイメージになります。

──フランスでは日常的にスープを飲む習慣がありますか?

毎日飲んでいるのではないか?と思うほど、フランス人はスープが大好きですね。友人でアーティストのマークパンサーさん(ニース(仏)在住)も家族のために毎日スープを作っていますけれど、沢山作って冷凍することもあるようです。スープとパンから始まってチーズとパン、ワイン、、みたいな流れで食事を楽しみます。

──ご自身がつくったスープの中でも印象的だったスープは何ですか?

かつてアルザス・ストラスブルグ(仏)の三つ星のレストラン、Buerehiesel(ビュイゼル)に一人で訪れたときに、ザリガニのスープを食べたのですが「旨過ぎる、これが三つ星か」と思った経験があります。これと同じ味を作るためにフランスに来たんだと思うほど印象的な味でした。フランスで働き始め数年たったある日、海老を注文して思い出してつくってみると同じように美味しいスープができあがった。そのことに感動しましたね。味の記憶だけで作った思い出深いザリガニのスープです。

──それでは、日本での印象的なスープはありますか?

九州出身なのでスープ麺のチャンポンですね。僕のおかあちゃんが作るちゃんぽんが大好きで、よく友達を大勢引き連れてみんなで自宅で良く食べました。幼少の頃の食の記憶は昔からおかあちゃんが毎日作ってくれる料理ですね。高校の頃はサッカーが終わってから、家に帰ると材料が用意されていてそれを使って自分で作りました。料理をするのはその頃から好きでした。

──どうして料理をはじめたのですか?

料理は小学校の頃からやっていたし、実家は農家でしたし、高校の頃から(そのほかの職業に比べて)スタートダッシュができる職業は料理人だと思っていました。フランス料理だと思って70年代~80年代は、フランスで修行をして日本で開業されるシェフがテレビでよく紹介されているのを見て育ちました。一方僕はコロンブスに憧れて、海外にいつか出たいといつも思っていました。「あんた料理が好きだったらフランス料理をやったらよかろうもん」と言ってくれた。この一言がきっかけとなりフランス料理を志そうと決めました。

──フランスでお店「Kei‘sPassion」を出そうと思った理由は?

初めて東京で働いたお店は渋谷の明治通りにある「ヴァンセーヌ」で修行をしました。そのときに出会ったシェフ酒井一之氏はフランスで15年修行をした後、ホテルの副総料理長も経験し実績を残されている素晴らしいシェフです。その当時シェフには「欲がないと駄目だ」と言われました。僕は15年を1日でも長くフランスに滞在し「このシェフを超える」結果を出そうと決断しました。過去の人が歩んだ実績を超えないと、道を切り開くことなどできないと考えています。日本におけるフランス料理の創世記を作った先輩からみれば、4世代目にあたる若手の僕らの中では、これまで創世記に実績を残したシェフたちを超えてきた人物はいないんです。「フランスで店を出す」「ミシュランで星を取る」「フランス人に認められる」という三つの目標を立てました。

──既に目標を達成していらっしゃいますね。修行時代はどんな時代でしたか?

修行も二つ星か三つ星のレストランを選んで訪ねました。雇ってもらうことすらなかなか難しいですよ。最初は給料ももらわずに、部門シェフをやっていた時期もありました。二つ星のレストランでは、スタッフのまかない、シェフのまかないをそれぞれ作らせてもらいましたね。まかないで作っていた料理がその店のランチになって表へ出ていくこともありました。その当時から僕は企画担当でしたね。部屋に帰っては本を読んで、毎日違うものを作らなきゃと勉強していました。ある日シェフの娘が部屋にきて、急遽彼女のために特別メニューを作らなくてはならなくなる、なんていう経験を経てだんだんと臨機応変に発想する力がついてきたのかなと思います。

──松嶋さんにお会いしてからシェフという職業のイメージが変わりました。全体感をお持ちというか。

いわゆる日本で言われるシェフは板長さん=職人さんの認識なのですが、フランスではまったく違う存在です。どちらかというとPR担当ですね、プロデューサーとも言うかもしれません。みんな表に出て行くし、レストランというハブ(集線装置・コネクターという意味)を通してお客さんとの輪だけでなく、スタッフの輪を大事にしたり、料理人同士の輪を大事にしたり、地域との輪を大事にしたりします。そういった土壌があるから「ミシュラン」が成り立つのですね。ミシュランが世界中にフランス料理を広く知らしめてくれることで、地域が豊かに潤うシステムが成り立っているのです。

──フランス人の食の根幹にあるものは?

ひとりひとりフランス人には、食を通して仲間や地域と輪を作っていこうという感覚は根付いています。もともとは観光の国ですから、地方ごとの豊かな文化や美味しいものをシェアして経済をまわしていく食のイベント等も、街や自治体単位で行われていますね。

──フランス人の文化の根底には何があるのでしょうか?

つまりフランス人は「金がなくても生きていけるっしょ」という人たちなんです。金がなくても土地が豊かだから食べていく物には困らない。そしてフランス人は給料は少ないですが、遊び方も、休み方も楽しみ方も心得ている。だからお金がなくては何もできない、という日本人の考え方とは真逆にあるんですね。日本も昔はそうだったんですけどね。自分が良いと思ったものに対しては人の目を気にせずに行動する文化が根底にあるので、お金がなくても豊かな文化が育つのではないかなと思います。

──お客さまに届けたいものは何ですか?

ニースである理由を考えます。ニースの四季、土地の香り、海や山を大事にします。うちのスペシャリテに「牛肉のミルフィーユ仕立て」というのがあるのですが、牛肉1枚には少しだけ山葵(わさび)を塗ります。そういったさりげない手法で自分が日本人であるというエッセンスは織り込んでいくこともあります。日本人は触感を大切にしますね。かつてサービスをしていた時代にお客さんが「パリパリして美味しい」という表現をされる方がいらっしゃいましたが、それは「美味しい」ではないんですね。「パリパリという触感が素晴らしい」という事なんです。どちらかというとフランス料理は触感のバリエーションが少ないので日本人が大切にしている「触感」を上手に料理に取り入れていくようにしています。それから日本人らしさといえばもう一つ「切ることによって味に変化をもたらす」ということが和食の素晴らしさだと思いますが、そういった繊細さも取り入れています。

──レストラン・アイに地産地消というテーマを取り入れた理由はなぜですか?

やはり、東京でも「みんなで輪を作っていく」という事をやりたいと思っています。リーマンショックのときに一度(フランスの)店の売り上げが落ち込んだ時期があったんですね。それまでは開店以来ずっと右肩上がりで、雑誌のインタビューで「何がしたいですか?」と聞かれても「失敗したい」と答えていたほどでした(笑)。失敗すると強くなるかな、なんて考えて(笑)。あの時は、一気にお客さんも来なくなるし、支払いの交渉はしなくてはならないし、なかなか厳しかったんです。その時に気がつきました。せめて周りの人をハッピーにしよう。身近で食材を購入するとか、自分の輪の範囲を縮めることで、そんなにお金がなくても周りの大切な人がまずは幸せだったらいいじゃん、と。周りの人がひとりひとり笑顔に変わっていく、お客さんはもちろんのこと業者さんも笑顔になる。東京でこういう事をはっきりと発言することがとても重要だと思っています。東京らしさを感じられるレストラン、様々な価値を生むハブになると思っています。

──「ASSO SOLIDARITE CHEFS POUR LE JAPON」をやる事になった経緯を教えてください。

3月11日、震災があった日僕も東京にいました。すぐにお店に来てパソコンを開けるとフランスや世界中の友人から次々に心配をするメールが届いていました。お店の前の明治通りには歩いて帰宅する人々が溢れていて、何かできる事はないかと考えました。残っている材料と、オイシックスさんからもらった野菜が沢山あったのですぐにスープを作り、お店を開放して皆さんに配りました。寒い日でしたからね、スープが温かかったと思います。フランスに帰ってすぐに友人や知人のシェフから何かできないかと連絡を受け、チャリティディナーをしようと決めました。寄付するとフランスの法律では税金が控除されるのでアソシエーションを作って活動をすることにしました。フランス人はチャリティディナーに対してまったくアレルギーがないです。人好き、美味しい料理好きですからね。次はいつ開催するの?と聞かれるほどです。集まったお金が、美味しいスープに形を変えて被災地に届いたら嬉しいと思って進めています。

松嶋啓介/まつしまけいすけ

小学校の頃より料理人を夢見、筑陽学園高校卒業後、専門学校「エコール 辻 東京」で仏料理の基礎を学ぶ。渋谷「ヴァンセーヌ」でサービススタッフとして働きレストラン人生をスタートさせる。20歳で渡仏。各地で修行を重ねた後、ニースに自店「Restaurant Kei's Passion」をオープン。2006年、レストランガイドブック「ミシュラン’06年版」で日本人シェフとしては最年少で一つ星を獲得。同年、店名を「KEISUKE MATSUSHIMA」に改め、拡大オープン。以降2011年まで6年連続星を維持。2009年春には東京・神宮前に新店舗「Restaurant-I」(レストラン アイ)をプロデュース。先日3月にシュバリエの文化勲章を授与された松嶋氏、文化通信大臣であり元首相のミッテラン大統領の甥フレデリックミッテラン氏から、フランスの料理界を巻き込んで日本支援をするようにという大義を受け取り「ASSO SOLIDARITE CHEFS POUR LE JAPON」の活動を開始。

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