Soup Friends Soup Friends Vol.22 / 幅允孝さん 10月17日よりSoup Stock Tokyo全店にて“オキーフのマッシュルームスープ”が発売されます。これに際し、ブックディレクターの幅允孝さんをお迎えして、ジョージア・オキーフにまつわる本を通じて見えてくるその女性像を伺いながら、幅さんのお仕事や食べることについてお話しいただきました。 ──幅さんのご職業“ブックディレクター”とは、具体的にどのようなお仕事なのでしょうか? もともと本屋で働いていたのですが、人が本屋に来なくなってしまったので、人が居る場所に本を持っていくのが僕の仕事とでもいいましょうか(笑)。近頃、本は、必要以上に崇高な存在になりすぎてしまっているところがあると思っています。ちょっと高いところから物を言うようなイメージがありますが、僕はもう少し気軽に手にとるべきものだと思うのですね。だから僕はなるべく下から目線で、下から差し出すような本屋さんでありたい。決して無理に読ませるのではなく、自発的に読みたいと思ってもらえる環境をつくることが僕の仕事だと思っています。未知なるものを知りたいと思う好奇心は、潜在的に人間に備わっているものですから。例えば知らない本に偶然出くわした時、その本を読まなくても今後の人生は、多分滞りなく進んでいくだろうけれど、でもちょっと手にとってみたらいいかもよ、というね。検索すれば簡単に情報が手に入る現代社会のことを、凍った湖面に小さな穴を開けてワカサギを釣る行為に似ていることから、“ワカサギ釣り的な世の中”と僕は呼んでいるのですが、自分が欲しいところに穴を空けてピッと情報を釣り上げておしまいなのではなく、その氷の下の水はきちんと繋がっているというイメージを大切に感じていて、そういうことを忘れたら愉しくないなと思うのです。何かひとつ釣り上げたものが、ほかの何かと結びついていて、思いもよらないものが出てくるとか…。そういうことに僕は興味があって、本が好きな理由もそこだと思います。インターネット上の情報に比べると、本は情報の深度が深く多面的なので、その分何かと繋がったり、結びついたりする可能性が高いと思いますね。 ──空間に合わせて本を選ぶという過程で大切になさっていることはなんですか? とにかく人の話を聞く、ということがそのプロセスにおいてはとても重要なことだと思っています。基本的には、自分ひとりの想像が及ぶ範囲には限界があります。つまり、自分が好きな本をおすすめしてもお節介にしかなりません。いろいろな方との何気ない会話のなかに出てくる抽象的な言葉や形容詞などからイメージを膨らませて、それらに本をあてがうようにしていきます。自分がおすすめしたい本とそこに在るべき本との距離を縮めていくという作業ですね。だから、自分がつくったお店を作品だと思ったことは一度もないし、作家性のあるものだと思われることも本意ではありません。どれもお客さまのためにつくっているものなのです。もちろん、僕自身が今、興味をもっている事柄はありますよ。ただ、そのままではうまくアジャストしないので、その結節点みたいなものをどれだけたぐり寄せることができるのか。そのために、どれだけ人の話を聞くことができるのかが大切になってくるのですね。 ──まるで処方箋をつくっていく作業みたいですね。ある症状や悩みに対して、「これはどうですか?」とひとつずつ漢方を出していくように、本を提案していく。そして、全部揃うとなんとなく世界観ができているような…。 そうですね。そこで重要なのは、本は漢方薬であるということです。最近はどうしても答えや即効性のある抗生物質的な救いを読書に求めるような傾向が強いけれど、本はどちらかといえば即効性ではなくて、遅効(ちこう)性の道具だと思います。だから、「来週のプレゼンで何かいいこと言わなきゃ」と、切迫感にかられて読書をするよりも、何の気なしに本屋で五感を全開にして手にとる本を、自分なりにしっかり読んでみることの方が、自分がその本に対して上手に介在できると思うのです。そもそも本屋で、タイトルも作家名も知らないけれど、何か気になるというだけで“本を掴みとる”という、その行為自体はとてもフィジカルであり、狩猟的嗅覚みたいなものが必要な行為だと思うんですよね。本を読むこと自体も脳を使っているわけですから。だから、身体の状況をどれだけ整えておけるのかということも、とても大切だと思います。 ──本は、幅さんにとってどのような存在なのでしょうか? 本を読むことも、食べることも、寝ることも、僕のなかでは全部繋がっています。本を仕事にしているというと、お高くとまっていて、内向きなように見られがちなところがあると思いますが、僕自身は外向きの本読みでありたいと思っています。本を読むこと自体を目的化していないところがあるかもしれません。本で読んだ情報が自分の日常のどこかにきちんと作用していて、毎日がおもしろおかしくなることの方が重要で、それはインターネットであろうと電子書籍であろうと、本でなくとも自分の中ではさして大きいことではないのです。その情報がどこから来たかというのは、自分の中ではこだわりはなく、その情報がきちんと入ってきて、どこかのアスペクトが変わることをむしろ大切に思っているので、そういう意味では外向きの本読みなのかもしれませんね。 ──それでは、ジョージア・オキーフという女性画家についてお伺いします。彼女の画集や、伝記などを通して、幅さんがお考えになるジョージア・オキーフという女性はどのような人だと思われますか? ひと言でいうと、“圧倒的に綺麗な女性”ということでしょうか。実生活の夫でもあったアルフレッド・スティーグリッツという天才的な写真家が撮ったポートレイトの、彼女に刻まれた皺や立ち姿を見るだけで、「あぁ、この人は綺麗だ」と感じるのは一目瞭然です。そして彼女が描く絵がまたいい。彼女自身が美しい女性であることに加えて、その美しさだけではなく、自分の描きたいものをストイックなまでに見つけようとする強さ、それを実現するためにひたむきに努力を重ねる姿勢。彼女は10代で、すでにどんな絵でも描ける技法を身につけます。その頃は誰かの模倣や、誰かが美しいと言ったものを描いていましたが、自分が描きたいものが見つからなかった。しかし27歳の時、なぜ今まで自分が欲するものを描いてこなかったのだろうと、はっとして、自分が絵描きとしてどうありたいのかを悶々と考え続けます。つまり、ひとを喜ばせる絵は描けたかもしれないけれど、自分が喜ぶ絵を描いたことは一度もないと気づくのです。自分の頭の中には、ほかの誰とも違う感覚や感情が詰まっているのに、なぜ自分が描きたいものに辿り着けないかともがき、“自分の欲しいものは何なのか”を手に入れるために狂ったように描き続けます。彼女の暮らしぶりは非常にそぎ落とされたように見えるけれど、彼女の家の中にある一脚の木の椅子や、ある動物の骨格は、彼女が欲しているからこそそこに存在するという、彼女にとってはそこに在るべき理由がとても明快で、その存在に対する慈しみみたいな感情が、それらをモチーフにした彼女の絵にも表れてくるわけです。自分が欲するものを本当の意味で理解することは、実はとても難しいことですよね。集中力や忍耐がなければ見えてこない境地に、彼女は驚くほどまっすぐに取り組みます。例えば通貨のように数値化されている客観的な基準があるとするならば、低いものより高いものの方がいいとか、そこまで集中して取り組まなくても、今までよりも高くすることに取り組んでいることが、まるで自分の欲しいものであるかのように錯覚してしまいがちですが、彼女はそういうものを一切取り払って、自分だけの物差しをもつことに生涯を通じて集中していた人だったのではないかと思います。しかも、1800年代後半から1900年代前半という時代背景を考えれば、女性がひとり立ちして画家として暮らしていくということは、なかなか成立しづらい世の中だったと思うんですね。例えば当時の美術の文脈でいうと、絵画のマーケットの中心はヨーロッパにありましたが、彼女はそこにまったく興味がなく、自分が生まれ育ったアメリカにこだわり、陽のあたる土地で好きなものたちに囲まれて暮らしたいと、自分が最も心地のいい場所を見つけて家をつくり、そこで暮らして…という、世の中や自分以外の他人が形成している文脈には目もくれず、自分の奥深いところに沈んでいる部分と対話を続ける。そして、その過程が作品として結晶化しているところに面白みがあるし、その生き様自体に学べることが多いですよね。自分の欲しいものにここまで集中した先人がいたということ自体になかなか前例がないし、その姿勢を保つことができた強靭な精神力が素晴らしい。『ジョージア・オキーフ━崇高なるアメリカ精神の肖像』(PARCO出版局)という伝記では、“ジョージア・オキーフ=アメリカ”だという書き方をされていますが、アメリカ的ナショナリズムとは別の軸で、彼女にしかできないやり方でアメリカなるものを追求し、表現していた人なのではなかろうかと思います。 ──ジョージア・オキーフにまつわる書籍の中からおすすめいただくとしたらどの本がいいでしょうか? ジョージア・オキーフの友人で彼女と同じニューメキシコ州に暮らしていた写真家Todd Webbが撮影した『Georgia O’Keeffe: The Artist’s Landscape』(Twelvetrees Press)。オキーフのポートレイトや、家、アトリエ、風景などを収めたモノクロ写真集です。それから、今では手に入りにくくなっていますが、ジョージア・オキーフが生涯をかけて描きためた花の画だけを100点集めたカラー大型判の贅沢な一冊『花━オキーフ画集』(リブロポート)が、とても好きです。 ──それでは、食のことについてお伺いします。幅さんは、食べることがお好きだそうですね。 はい、とても好きです。不確かなことも多いこの世の中において、おいしいものを食べた時に思わず「うーん」と唸ってしまう、あの瞬間は揺るぎなく確かなものだと思います。最近僕が関心をもっているテーマは“身体(からだ)”なのですが、その食べるという行為そのものを通じて感じられる“確かさ”みたいなものは、何にも得がたいものがあります。この間も、和歌山県でもぎたてのみかんを食べて本当においしいと感じたり、東北沢のとある店のとある京風割烹料理が、若い職人さんの気概に満ちていて実においしいと感じたり。若い頃は忙しくてお昼を抜くこともありましたけど、最近ではどんなに忙しくても食事をすることはなるべくさぼらないようにしています。 ──Soup Stock Tokyo(以下、SST)をご利用いただいたことはありますか? もちろんです。よく行くのはEchika表参道店です。時間がなくて“流し込みたいランチ” (笑)を食べたい時に重宝しています。オマール海老のビスクか、ヴィシソワーズが特に好きです。家で何種類もつくろうとすると大変ですけど、一度にいろいろな種類のスープを手軽に食べられるというところに、とても満足しています。 ──スープ(汁物)にまつわる想い出があれば、ぜひ教えてください。 子どもの頃ボーイスカウトに入っていたのですが、野営といって、生きる力や術を身につけるためのキャンプ訓練のようなものがありました。冬季キャンプでは雪をかきわけるところからスタートして、自分たちでテントを張り、料理もします。その時につくったスープのトマトの味をよく憶えているので、今で言うところのミネストローネだったのでしょうが、冬の山中湖畔にある野営場でとても寒い中、あったかいスープを食べました。ところが真夜中にハプニングが起きて、野犬がスープを食べようとしているのを見つけたんですね。そこで、棒みたいなものを持って戦って、スープを守ったことを鮮明に記憶しています(笑)。僕は、愛知県のボーイスカウト団に所属していたのですが、いまだに舫(もやい)結びという、船が流されないように港に結びつけたり、人命救助の時などに使う、ほどけない結び方も10秒くらいでできますよ(笑)。 ──最後に、現在取り組まれているプロジェクトがあれば教えてください。 10月17日から西武全店で展開されるクリスマスキャンペーンで、贈り物と一緒に本を贈るというプロジェクトを手がけています。商品に合わせていろいろな本から抜き出した一文を載せることで、箱に入った時にその商品がより面白く見えてくるという仕掛けです。ぜひ愉しみにしていらしてください。 幅允孝/はばよしたか BACH(バッハ)代表。ブックディレクター。人と本がもうすこし上手く出会えるよう、様々な場所で本の提案をしている。羽田空港「Tokyo's Tokyo」や東北大学工学部「book+cafe BOOOK」などのショップでの選書を始め、千里リハビリテーション病院のライブラリー制作など、その活動範囲は本の居場所と共に多岐にわたる。著作に『幅書店の88冊』(マガジンハウス)がある。 2018.08.07