Soup Friends

Soup Friends Vol.32 / 山下朝史さん

フランス・パリの郊外にある小さな村で、日々、畑の野菜と対話を続ける山下農園の山下朝史さん。彼が作る野菜は、まるで芸術作品のように自由で創造性に富んでいます。パリの星つきシェフたちは、その繊細な味わいから「奇跡」と称え、「魔法がかかっている」と表現します。野菜のポテンシャルを最大限に引き出す山下さんの野菜づくりと精神性について伺ってみました。

──フランスでよく召しあがるスープがあったら教えてください。

フランスでは結婚披露宴を翌朝まで延々とやるのですが、朝方、おつかれさまの意味合いで、小腹が空いた最後に出てくるのが「オニオングラタンスープ」です。日本で言うところの、深酒をした翌朝に飲む味噌汁みたいなものでしょうか。

──山下さんがよく召しあがるスープ(汁物)があればお聞かせください。

毎年5月から10月に、自宅を開放して3部屋ほどのペンションとレストランをやっています。毎週土曜日の昼、夜と日曜日の昼だけ営業しているのですが、パリから車で30分という手軽な距離も手伝って、フランス人を始め、世界中からゲストが遊びにいらっしゃいます。提供する料理は、私の野菜を用いて妻の家庭的日本料理で、私が一番よく飲むものは、妻が作ってくれる山下農園の野菜スープですね。私も料理をまったくしないわけじゃないですし、一応、調理師免許も持っているのですが、自動車免許を持っているのに運転しないペーパードライバーのようなものです(笑)。味噌汁もよく飲みますよ。味噌も自宅で作っていて、日本から取り寄せる種麹とイタリア産のお米で米こうじを作り、カナダ産の大豆と、フランス産のゲランドの塩を合わせて仕込みます。とても美味しいですよ。

──日本の野菜をフランスで作るというのは、気候も土壌も違って大変だと思います。どのように実現されたのですか?

私は数字に懐疑的なので、数字で表せることはすべて無視して、数字で表せないところで闘っています(笑)。すべて感覚なんですね。一般的な農家はきっと、土壌分析をしたり、肥料の配合を設計したり、作物の糖度を測ったりすると思いますが、私は一切、そういうことをやっていません。

──なぜ農業を始めることになったのですか?また、その場所として「シャペ村」を選ばれたのはなぜでしょうか?

最初は農業をやりたくてフランスに渡ったわけでありませんでした。そもそも東京生まれの東京育ちは普通、農業をやろうと思いませんよね。当時わたしは盆栽をやっていたので、盆栽業のできる、パリの西側で、広い庭がある家を探して見つかったのが、今の家です。畑といっても50メートル四方しかありませんし、これからもこれ以上広げるつもりもありません。農業経験もまったくないところからのスタートでした。農業を始めるきっかけというほど大それた動機があったわけではありませんが、私がひとりだけ師匠と仰いでいる方がいます。母の親友のご実家で、800年前から千葉県の松戸市で農業を営んでいる大地主の家系で、その名も松戸さんとおっしゃるのですが、歳を重ねていくと、農民はこんな風になっていくのだなと思ったり、私もこういう元気なじいさんになりたいな、と思ったりしました。とは言っても、農業のことはひとつも教わったことがありませんし(笑)、時折おじゃましては、大根や葱なんかをいただいたりして、元気をもらって帰ってくるという具合でした。

──そもそも盆栽で、なぜフランスに渡ることになったのですか?

若者の多くは、海外志向と言うのか、一度は海外に住んでみたいと思いますよね。私にとってはその欲求を満たすためならどの国でもよかったのですが、たまたまそれがフランスの大学で勉強をすることになったのです。それ以前に米国にも行ってみましたが、なんとなくリズムが身体になじまなかったんですよね。それで米国からメキシコに行ってみたら、ラテン系でとてもしっくりときた。今でもフランスが一番好きな国かと言えばそうでもないのですが、現にこうしてフランスで生活をさせていただいているので、愛するべき国だと思っているところはあります。大学では、音楽にしようか美術にしようかと迷ったのですが、結果、美術史を専攻しました。しかし芸術家にあるような情熱なんかは、まったくないんですよ(笑)。むしろ常日頃から、なるべくフラットでいたいと思うほうです。

──すると、美術の影響から盆栽にたどり着かれたのですか?また、盆栽から農業に活かされている部分はあるのでしょうか?

盆栽は、勉強したというより、父が盆栽が好きだったので、小さい頃から自宅にあったのです。むしろ、自然に憶えていったという感じですね。農業の知識や技術はまったく持っていなかったので、盆栽の技術や考え方を駆使して、農業をやるしかなかったわけです。
そもそも盆栽というものは、不自然なんですよね。小さな鉢に大きな木を植えて育てるわけですし、針金を巻いて枝を下ろしたりね。日本における植物を活かしたアートと言えば、「盆栽」と「生け花」がありますよね。それぞれの表現の先で何が異なるのかと言うと、「生け花」は植物を切ってしまうので、未来に命がつながらないわけで、ある種の刹那的な美しさを秘めた「一瞬という時間」を表現する芸術と言えます。一方、同じ時間を表現するものでも、「盆栽」は百年や千年という「ボリュームのある時間」を表現する芸術なんですね。
「盆栽」と言うのは、たとえば、森の中で、種が落ち、芽が出ると、「頂芽優勢」と言って、一番先に出た芽は陽の光を浴びようと、ぐーんと上に上に伸びていきます。すると、鉛筆のような形になるんですね。ところが年月を重ねて行くと、今度は傘を開いたような形になり、葉っぱの表面積を広げて、太陽の光を一身に浴びようとします。つまり、「盆栽」で枝に針金を巻いて下ろすのは、下ろす行為によって「数十年の時間の経過」を表現しようとしているのです。
また、「盆栽」で学んだ「剪定(せんてい)」という考え方も、野菜づくりで「間引く」という作業に活かされています。つまり、枝が混みすぎて風通しが悪くなると、元気がなくなってしまうので、いかに風通しを確保し、木の力を落とさないようにするかに注力するということです。つまり、「盆栽」はかなり不自然な世界にありますが、自然のことを相当に知っていなかったら、あの究極に不自然な環境下で健康に木を育てることはできません。「盆栽」の不自然さと同様に、農業も故意に栽培しているわけですから不自然なものなのです。不自然なだけに「バランス感覚」というものがとても大切になってきます。たとえば、バランスのとれた畑で作られた作物で作るスープは、「バランスのとれたスープ」になります。それは塩や胡椒などの調味料とのバランスを超えた素材自体の「バランス」というものが、すでにそこにはあるからです。そういう作物を手に入れるのは、とても大変なことだと思います。

──農家にもいろいろなタイプの農家があると思いますが、山下さんはどのように今のようなスタイルを確立されたのでしょうか?

世界中にはたくさんの農家がいて、それぞれの農家にはそれぞれの農家の役割があると思います。農家が集まって話し合って「僕はこうするから、あなたはこうやって」と相談しているわけじゃありません。たとえば、じゃが芋や人参など一種類を何百トンと作る農家は、とにかくたくさんのひとたちにたくさん食べてもらいたいという目的で取り組んでいるし、多品目を目指す農家は、野菜の世界はこんなにも多様性があって豊かなのだということを伝えようとしているわけですね。その中で、山下農園は何を目指しているかというと、本当に少量しか作らないことで「品質」を、多品目作ることで「豊かさ」を生み出すことに挑んでいて、それぞれの野菜が持っているポテンシャルを最大限に引き出された「プロトタイプ」の野菜を作っているんです。そこには、独自のクリエイティブな感覚が必要だと思っています。

──それが、山下さんの農業に対する「こだわり」なのでしょうか?

「こだわり」があるかと言われたら、私は「こだわり」を持っていませんと答えます。そもそも「こだわり」という言葉は、現代では褒め言葉として使われることが多いと思いますが、本来あまり良い意味はなく、「祖末でさしたる価値のないものに異常に執着する」というのが「こだわり」なので、これを枕詞にして、食文化を育んでいこうとするのは、方向性として間違っていると思います。わたし自身は「こだわりのない心」で美味しい野菜を作ることに取り組んでいるので、「山下さんのこだわりの野菜」などと表現されると、頭にきちゃうんです。

──それでは、山下さんが考える「おいしい野菜」というのはどのような野菜なのでしょうか?

もちろん、おいしいものを作りたいと思ってやっていますよ。しかし「おいしい野菜」と「良い野菜」というのは別のものなんです。「おいしい野菜」は絶対に「良い野菜」なのですが、「良い野菜」が「おいしい野菜」であるとは限りません。「良い野菜」というのはどういう野菜をイメージされますか?私が考える「良い野菜」の条件は3つあります。1)適正範囲内の環境で順調に育てられたもの 2)旬の期間に収穫されたもの 3)収穫後、ひとの口に入るまで適正に管理されたもの(=新鮮さ)。 だから、いつ収穫したか、あるいは収穫後にどのように過ごしたかで左右されるわけですが、「おいしい野菜」の条件はひとつ「おいしい」ということだけです。なぜなら、「おいしい野菜」は「良い野菜」の条件を満たしていないと、絶対においしくないのですから。
また、意外と知られていないのは、自然食品店で販売されている土つきの野菜が、いかにも収穫仕立てで新鮮なように見えますが、土をつけたままだと、土が野菜の水分を吸ってしまうので、どんどん鮮度が落ちていっちゃうんですよ。綺麗に洗った大根と、土をつけたままの大根を数時間後に比べてみてください。まったく鮮度が違いますから。なるべく買いだめなどをせず、その日のうちに使ったほうがいいということは言えますが、私が冷蔵庫を使う理由のひとつには、一旦成長を止めるという目的があります。よく、採れたての野菜が一番美味しいと言われたりしますが、一概には言えません。たとえば、かぼちゃは収穫後25日くらい経った頃が一番美味しいと思います。小松菜やほうれん草も、朝採って昼に食べるよりも、前日の夕方に採って翌日の昼に食べるほうが美味しいんですよ。つまり、野菜の立場になってみれば、もしかしたらご機嫌に暮らしていたところを突然に引き抜かれてしまうので、野菜もびっくりしているかもしれないし、もしかしたら頭にきているかもしれないですよね。劇的な環境の変化に対応(順応)しようとしているのか「たぎったような味」に感じるのです。その「たぎり」を少し鎮めてあげてからのほうが、私はおいしく感じるのです。それを感じ取れるひとはほとんどいないかもしれませんけれどね(笑)。

──その研ぎ澄まされた感覚はいつ頃からどのように身につけられたのでしょうか?

誰からも教わっていませんし、教本に載っているわけでもなく、すべて自分の畑から教わったことです。別に確固たるセオリーがあるわけでもありません。農業を始めてこの17年間、日々を畑で過ごしながら、野菜と向き合うことで培ってきた感覚です。そのおかげで、私の野菜を使っているグランシェフたちより、私のほうが野菜については詳しいので、こういった話をシェフたちにすると考えるところがあるようです。話を聞いたあとに、その野菜を活かすレシピが変わることも、しばしばあります。
大半の農家は野菜を出荷した段階で仕事は終わりだと思います。少し意欲的な農家は、シェフが使いやすい野菜を作ってあげたりして、今のところそれが最先端かもしれません。しかし、わたしの場合はそこからもう少し先までを考えています。私の野菜は、シェフの先にいるお客さまに喜んで食べられているのかしら?と思うのです。私の野菜を使っているシェフたちは、オピニオンリーダーですから、一般のシェフたちの目標であり、一般のシェフよりも2〜3歩先を行っています。すると、私は彼らのさらに先を歩いていなければ「おいしい野菜」をベストな状態で準備できないわけです。最近の潮流として、「おいしい野菜」=「有機野菜」という図式が通説のようになっていますが、先日フランスのテレビ番組の取材を受けた時に、聴き手の方が「山下さんの有機野菜は…」という紹介の仕方をしたところ、シェフが「いや、ムッシュー山下が作る野菜は有機野菜ではなくて、さらにその先を行っている野菜です」というような紹介をしてくれました。
たとえば、山下農園のカブにはヴィンテージがあります。カブの専門農家もあるなか、おいしかろうとまずかろうと、「カブとはこういうもの」という一定の水準があって、形が揃っているとか、今年の収量は多かったとか少なかったなどという評価基準になるのですが、私が作るカブはまったく違う次元のものなのです。もしも、カブの専門農家の方が私のカブを食べて、「えっ?カブなのにこんな味がするの?」と思ったとします。そうしたら、彼らが今までとは違うカブを作る可能性が出てきますよね。本当にその味が出せるかどうかは別として、食べなければ知らなかった味は、再現のしようがないわけですから。
私の過去を振り返ってみてひとつだけ言えるのは、ただやみくもに数を重ねれば成功につながるわけではないということです。失敗のうちの99%は失敗のまま終わっています。何か大きな成功をしたければ、小さな成功を積み重ねるしかありません。一発逆転などないのです。

──山下さんご自身では、どのような部分が他の農家と違うと思われますか?

よく山下農園に研修に来たいという方が「これだけ世間に評価をされるおいしい野菜の作り方を教えてください」とおっしゃいます。でも、私は何ひとつ特殊なことをしているわけじゃありません。希少価値という言葉がありますが、「少ない数しかできないものに価値がある」わけではなくて、「本当に良いものは少ししかできない」のです。大量生産をすると味が落ちるのは当たり前です。量と質は反比例の関係で私は量を求めず質を追求しているのです。

──山下さんが作る野菜がお客さまに喜ばれているかを、どのように確認されるのですか?

実際に、野菜を使っているシェフたちのレストランに食べに行きます。そこで「おや?」と思えば、正直にシェフたちに「まずい」と伝えます。たとえ一流と言われるシェフと言えども、レシピの出来不出来というのはもちろんあります。数年前に山下農園の新作として「金時草(きんじそう)」という葉ものを作り、シェフたちに渡してみました。葉は分厚くオリーブの葉のようで、表は濃い緑色、裏は紫色をした美しい色合わせで、加熱するとヌメリが出るのが特徴です。そしてついに今年、『ホテル・ジョルジュ・サンク』のエリック・ブリファーも、ピエール・ガニエールも、『アストランス』のパスカル・バルボーも、『レストラン・イティネレール』のシルヴァン・サンドラも、わたしの金時草を活かした素晴らしいメニューを作りました。つまり、彼らは皆、素晴らしい腕の持ち主ですが、数年前に渡して以来、わたしの金時草を理解するのに2年を要したということです。どんなに技術があって、どんなに感覚が優れていたとしても、食材に対する理解がなければ、絶対に良いレシピは出てこないということです。

──山下さんの野菜を預けるシェフを選ばれる時に、大切になさっていることは何ですか?

シェフたちの料理観とか、レストランの星の数はあまり重要視していません。私が作る野菜は数量が少ないので、言わば娘のようなものです。早熟な娘は早めに、晩熟な娘は遅めでいいけれど、それぞれを旬なうちに嫁に出してあげたいし、気立ての良い娘に育ってほしいと思って育てているのです。出荷する時には、娘たちに恥ずかしい想いをさせたくありませんから、精一杯におめかしをしてあげて、綺麗になった娘の最後の姿を、目をつぶっても鮮明に思い出せるように、瞼に焼きつけておきたいという気持ちでいます。ですから、そんな娘たちが幸せでいられて、良い嫁が来たなと喜んでもらえるのかという視点で、どこに出すのかを選んでいます。こればかりは「ご縁」も多分にありますね。

──山下さんから見て、シェフたちの食材に対する理解度というのは、どの感覚が優れていると良いと思われますか?

おいしいか、まずいか、というステレオタイプ的な観点で見分けるなら、山下農園の野菜を使った料理がまずいわけはありません。だって、食材自体が美味しいわけですから、どんな料理人が作ったっておいしいのです。ただ、状態の悪い食材を腕の良い料理人が調理すれば、おいしくはなるかもしれませんが、相当に化粧をしてごまかさなければおいしい料理にはなりません。よく「パリの美味しいレストランを教えてください」と聞かれますが、私が外食する時には10軒のうちに8〜9軒は星つきレストランに行くようにしています。なぜなら、「美味しいものを食べる」というのも仕事の一部だからです。私が行くところはどこもおいしいですが、それに加えて何があるのか?また、どのように差があるのか?ということなんですよね。

──山下さんがこれまでに感動したひと皿は、いつ食べた、誰の料理ですか?

ここ最近、パスカル・バルボーが彼の店で出しているラングスティーヌ(手長海老)の入ったコンソメスープです。スープには花びらやハーブが散らしてあるのですが、ラングスティーヌと一緒に飲んでみても、ハーブと一緒に飲んでみても、ワンスプーンごとに味が違うのには驚かされます。今、パリで主流になりつつある花びらを用いたフランス料理で、その使い方が最も上手だと言われているのが、パスカルとミッシェル・ブラスです。ミッシェルが自身の店で出している料理を言葉で表現するなら、店の外は暗くて何も見えないはずなのに、ひとたび口にすれば眼前に風景が広がったような気持ちになります。一方、パスカルの料理は、ワンスプーンが一篇の詩になっているようです。つまり、ひと皿は一冊の詩集のようなもので、ページをめくっては、また戻りたくなったりする。パスカルの料理にはポエジー(詩)があるんですね。食材の使い方のすべてに明確な意図があって、そこには一点のくもりもありません。それが彼の料理の完成度の高さと言えます。お腹がいっぱいにならなくても満足できるスープなのです。
おいしいものを食べたければ、最高級の食材が集まる東京を勧めますが、良い食事をしたかったら、パリにしたら?と言うようにしています。なぜかと言うと、外食というのは自分の家を出てから帰ってくるまでのすべての体験を含めて、外で食事をするという文化なので、東京の外食文化も水準は高いのですが、お皿の上だけで勝負をしようとしている感じがしてしまう点で、パリには適わないなと思います。

──フランス人によって育まれる文化というものは、さまざまな要素に敏感であるという国民性に支えられているように感じます。

そうですね。日本人が幼い頃から教育されるのは「感性」なんですよ。感性は氷山の一角で、実は海面に顔を出している欠片の十倍の大きさの氷が海面下に潜んでいる。その大きな氷の塊すべてが「感受性」なんです。ですから、日本人は「鋭い感性を磨きなさい」という教育をされますが、フランス人は「豊かな感受性を育みなさい」と教育されます。感性は磨くと鋭くなるのですが、磨くと減っちゃいますよね。「削ぎ落して」形を整えるのではなくて、わたしは「盛って」整えたいのです。そうすればボリュームが大きくなりますよね。バランスをとるうえで一番大切なことは何なのかを考えてみると、一目で見ただけで、ワンスプーンを口にしただけで、ちょっと触れただけで、「違和感」を感じ取ることができるかどうかだと思うのです。それが違和感のうちは修正が利きますが、走り出してしまったら、またゼロからやり直さないといけない。それらを受け取れる度量があるかとうことが、「感受性を育てる」ということなんですね。

──山下さんのモチベーションとはなんですか?

モチベーションという意味で言うと、私の場合はまったくそれを重要視していません。毎日いろいろなことがありますから、精神的にアップダウンは少なからずあります。でも、畑に行ったらビシッといつもどおりの仕事をするという気持ちでいますし、モチベーションに結果が左右されるような柔な技術ではないと自負しています。ですから、なるべくなら振り幅が少なくて済むようにフラットでいようと思います。頑張るという感情が好きではありませんし、そもそも追いつめられたり、プレッシャーをかけられたりして、実力を発揮できるタイプではありませんから。

──山下さんが今後やってみたいことはありますか?

将来やりたいことがあるかと言うと、夢はありませんが、仮説はあります。夢には到達点がありませんが、仮説はデッドラインを決めますから、そこから逆算して今日は何をすればいいかという優先順位をつけやすい。今私がやっている仕事に満足しているかどうかについては、不満足な部分ももちろんありますが、トータルして考えれば大満足です。多分、私にしかできない仕事のかたちだと思ってやっていますから、有意義だとも思っています。フランスで日本の野菜を売る時に考えたことは、フランス人のシェフたちには日本の食材に対するノスタルジーなどありませんから、私の野菜を通して、日本の食文化のことを理解してもらうところから始めなくてはなりませんでした。そういう意味では、日本の良い食材を彼らに伝えたいという想いは、今でもあります。最初は「日本の素材である」という部分を意識的に伝えていましたが、最近では、わたしからそこを伝えることは、あえてやめています。むしろ、シェフたちのほうから「日本」というエッセンスを意識して表現するようになってきました。この先に、シェフたちが「日本」を意識せずに、日本の食材と西洋の食材が自然と融合していけば、それが文化交流の最終形だと思いますし、そこまで行けば、私の仕事も完成形に近づけるのかな、と思います。最後に、私が目指す農業の目標は、「抱かれたい農民ナンバーワン」になることです(笑)。最大のライバルは、奇跡のりんごの木村さん(笑)。ここだけは必ず残してくださいね(笑)。

山下 朝史/やました あさふみ

1953年、東京都中野生まれ。23歳で渡仏後、さまざまな職業を経て、1996 年、43 歳の時にフランス・パリ郊外のシャペ村にて独学で農業を始め、山下農園を開業。パリの一流レストランのシェフたちから絶大な支持を得る山下農園の野菜は、「世界最高峰の日本野菜」「オートクチュールの野菜」「奇跡のカブ」などと称され、一躍人気を博す。「好きな時に、好きな野菜を、好きなだけ、好きな値段で売る」という独自の販売方式や、ユニークな人生哲学も注目され、週末だけオープンする「山下農園レストラン&ペンション」も順調に営業中。著書に、『パリで生まれた世界一おいしい日本野菜』がある。

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