2016/10/23(Sun)@東京・中目黒
芸術の秋。食欲の秋。
Soup Stock Tokyoの「ストーリーから生まれるスープ」。
過去には、「ゴッホの玉葱のスープ」や「モネのポロ葱のスープ」「オキーフのマッシュルームスープ」などアート作品やその作家からインスピレーションを受けて作ったスープがいくつもあります。
2015年・秋のおいしい教室では、そういった私たちのスープ開発を体験していただくようなワークショップを開催いたしました。
そして、2016年の秋、私たちは10月8日から開催中の「ゴッホとゴーギャン展」に合わせて、新商品「“ゴッホ”の麦畑のスープ」と「“ゴーギャン”の麦畑のスープ」をつくりました。
今回の「おいしい教室 ~アートと食のじかん~」では、キュレーターの林綾野さんをゲストにお招きし、スープストックトーキョー創業者である遠山正道との対談形式で、“アートと食の結びつき”についてお話を伺いました。
「アートというと少しとっつきにくく感じる人も、作品に描かれた「食」が媒介になればぐっと身近になるんです。」と語る林綾野さんは、キュレーターとして展覧会の企画や美術書の執筆を手がけられています。
イベント前半は、林綾野さんがなぜ「アートと食」を結びつけるようになったのかというご自身の経験についてお話いただき、後半、遠山正道を交えてゴッホとゴーギャンが生きた時代や画家という仕事、アートとビジネスの関係についても触れながら、お話を伺いました。
ゴッホとゴーギャンが生きた時代
<遠山>
昨日、「ゴッホとゴーギャン展」に行ってきまして、初見の作品も含めて音声ガイドを聞きながら作品を鑑賞してきましたが、本当に素晴らしかったです。
写実的なゴッホと抽象的な作風のゴーギャンの絵を観て私が感じたのは、写実っていうのは、ぐーっと掘っていくようなイメージなのかなと。われわれビジネスの中でブレストなんかをやっていると、“拡散”と“収束”みたいなことがあって、私は拡散していろんなことをイメージするのが好きなんですね。でも拡散だけだと結局イメージだけで終わってしまってカタチにならない。そこからあるとき、ギュッと収束に向かうときがあるんです。「これ実現できるね!」みたいな感覚。拡散したものがギュッと収束することで現実にカタチになる面白さがあって。
あの時代の作家って、カメラというものが登場してから画家の役割がずいぶん変わってきたと思うんですね。それまでは、なかったものをあるかのように描いたりするのが画家のひとつの使命だったところから、カメラが登場して「あれ?カメラすごいじゃん!」みたいになって、画家って何すればいいんだっけ?って。
だから、どちらかというとゴーギャンのように空想というか自分の中のイマジネーションを表現するのが流行った時代なのかなという気がする。
当時の画家ってどんな立場だったんですか?結構メジャーな職業だったのかな?
<林>
画家として仕事をしていれば、一職業ですよね。
いろんな仕事がありますけど、ヨーロッパではギルドという同業組織があり、登録されるとリストに載る。そのリストに載らない限り、友人や親戚以外からの仕事は来ないんですね。リストに載るために重要なのがサロン(作品品評会のような場)。
印象派はそのころ世間ではあまり評価されなかったんですよね。サロンに出しても落選するので、印象派はグループ展というものをやるんです。それを重ねていくうちに、ルノアール・モネ・マネあたりが売れはじめて。
専属の画廊が顧客を持っていて、「モネが描いたけど、どう?」みたいな感じで顧客に売っていた。
それを見て、ゴッホとゴーギャンも自分たちも「そうなれるかも」と思っていたんですね。
<遠山>
現代の日本においても、作家として食べていける人って本当に一握りですよね。
<司会>
遠山さんはスマイルズとして作品をコレクションされていると思いますが、どんなアーティストの作品が多いんですか?デザイナーなど別の仕事を兼業しているような方が多いのか、それとも純粋にアーティストとして活動されている方が多いのか。
<遠山>
だいたいアーティストとして活動している人が多いけど、中には学校の先生や全然違うバイトをやっている人もいますね。
でも、昔ってコンビニのバイトがあるわけでもないし、画家たちはどうしていたんですかね?
<林>
ゴーギャンもバイトしていたんですよ。ポスター貼りとか清掃員とか。
彼はもともと船員をやっていたり株式仲介人をやっていて、奥さんも子どももいたんですが、あるとき絵一本でやっていこうと決心してほかの仕事を辞めたんですね。ただ、やはり絵だけで食べていくのは大変で、奥さんはすぐに実家に帰ってしまいます。その後もお金を借りたり、バイトしたり、死にそうになりながらなんとかやっていくんです。
<司会>
ゴッホの立場からすると、ゴーギャンがちょっと悪い奴みたいな印象があって、だけどゴーギャンも彼なりに頑張っていたんですね。
<林>
まず誤解のないように言っておきたいのは、(ゴーギャンの)絵は素晴らしい(笑)。
正直、ゴッホ・ゴーギャンの資料をいろいろと読んでいるとゴーギャンは嫌なやつだな~とか思うこともあるんですよ(笑)でも、ゴーギャンの絵は本当にきれいなんです。
ゴーギャンの「アリスカンの並木路、アルル」という絵が、今回の展覧会に来ているんですね。それを近くで見たときに、そのオレンジ色の光明した感じといい、色使いといい、あまりに美しくて感動したんです。
その絵は、ゴッホとゴーギャンの二人が背中合わせで描いたと言われているんです。きっとお互いにちらちら見たりしながら描いたんじゃないかなと想像したりしてるんですけど。
<遠山>
色っぽいね~
リスペストし合う羨ましい関係
<林>
遠山さんに聞いてみたいのは、ライバルのような男同士ってどんな感覚なのかな、と。
彼らは当時35歳と40歳という年齢のときに一緒に過ごしていて、ゴッホはゴーギャンを人間的にリスペクトしていたんですね。
今思えば、その二人は並んで今でいえば30億円と15億円の絵を描いていたんです。ライバルが隣で凄い作品を描いていたらどうですか?
<遠山>
いや~そこまでの感覚はわからないけど、数日前に建築家の石上純也と、映画監督の常盤司郎とで男飲みをしていたんですよ。夜中に三原 康裕も呼び出して。
そのときに、石上純也が「自分は建築をやってるけど、映画が羨ましい」と言っていたんですね。建築家は役割が見えづらい、と。映画は、監督もいれば、役者や美術さんなどがいて、一人ひとりの役割が見えやすくて羨ましい、と。常盤司郎は、「映画と建築は似ている」と言っていたり、そういうのって面白いなと思って。
ライバルじゃないけど、ものづくりをする者同士のジェラシーというか。
<林>
ゴッホはゴーギャンに手紙を書くんですよね。ゴッホは、アルルの街に芸術家がみんなで助け合って暮らす村を作りたかったんですよね。ゴーギャンは半ば仕方なく来てくれたんだけど、ゴッホは「待ってました」という感じで嬉しくしょうがなくて。
ゴーギャンはそのころゴッホのことをあからさまには褒めたりしないんですけど、ゴッホの「ひまわり」の絵はすごいと思っていたり、ゴッホが死んだあと「ファン・ゴッホの芸術を僕が好きだということを知っているだろう」と話していたり、少し愛をみせるんですよ。
でも自分よりすごいとは言えない複雑な気持ちが見え隠れするんですよね。
<遠山>
そういうのがすごく羨ましいなと思ったんですよね。
ヒロミヨシイギャラリーというコンテンポラリーアートのギャラリーが六本木にあって、年に一度「建築模型展」というのをやっているんだけど、一年間で一番来場者数があるらしいんだよね。
要するに建築の人たちって、先輩をたてたり興味があれば研究するからそういうのも観に行くんだけど、現代アートや作家は人のことには全然興味がない。だからゴッホが目指した共同体(村)みたいなものや印象派のグループ展みたいな動きって、いいなと思いますね。
アートを身近に感じながら、アートから学ぶ
<司会>
綾野さんは、作品だけでなくその作家がどのように生きてきたか、どんな暮らしをしていたかというところをよく見ていると思うんですけど、遠山さんが作品を選ぶときに作品そのものに興味をもつのか、アーティストの人柄やプロセスに興味をもつのか、そのあたりどうですか?
<遠山>
両方かな。
さっきゴーギャンの絵を「美しい」って言ってたけど、それってすごく幸せな会話で、絵を見て素直に「美しい」って表現していいんだ、みたいな。
今のコンテンポラリーアートって、「美しい」っていうことで評価する領域ってほとんどなくて、だけどやっぱり「美しい」とか素直に感動したいな~とも思うんですね。コンテンポラリーアートだと「面白い」とかそういう感覚があって。
今年の岡山芸術交流の情報を見たときに、「行きたい!楽しそう!」って素直に思ったの。現代アートが「楽しい」文脈に近づいてきてくれているみたいな。
たぶん大きな流れとかあって、コンセプチュアルに思いっきり寄ったりとかいろいろある中で、小難しい時代が少し終息して、もっと建築とかファッションとかカルチャー全般とアートがコミュニケーションを取るようになっていって、ごく一部の人たちが楽しむだけじゃなくて、一般の人たちがもっと語っていいような流れがきているのがちょっと嬉しい。
だから、どういう作品を買うかっていうと、そういう“楽しさ”があるものっていうのかな、自分たちがちょっとでも作家側に回れた時の楽しさってあると思うんですね。そういうのを感じられるものとかいいな、と。
Photo Gentaro Ishizuka
スマイルズで、去年から作家として芸術祭に作品を出品しているんだけど、ボランティアの人たちが設営や作品作りを手伝いに来てくれるのね。あるとき、ベンツに乗った38歳くらいの男性が東京からボランティアに来ていて、なんでこのボランティアに参加したのか聞いてみたんです。そしたら「作品を作る側にちょっとでも回れるだけで、作品の見方が変わるんです。」と。手伝ったっていう行為を通じて、急にぐっと作品と自分が近くなって、それがすごく気持ちいんだって。なんかそれすごくわかる気がするんだよね。
<林>
私もまったく同じ感覚です。時代によって芸術の意味って変わってくると思うんですね。
ゴッホとかセザンヌ、モネとか印象派が描いたものもそうですが、作品崇拝の時代があって。絵を見て感じる、絵との対話が一番重要だと言われていた時代があったんですが、もちろんそれも正しいとは思うんですが、今の人たちにとってアートってなんだろうって考えないといけないし、その時代のカスタマーにとってどうあるべきか、ということが大事だと思うんですよね。
アートや芸術が、励みになるようなことを時代とともに考えていかないといけないな、と。
畑は違うけど、似たようなレールが現代美術にも近代美術にもあるような気がしますね。
<遠山>
デザインとアートで考えてみると、デザインはクライアントがいて、作品があって、納品して、結末がある。
アートは、結末がない。絵が一枚あっても、そもそも誰かが頼んだんだっけ?一枚も売れてないんですけど・・・みたいなこともある。
<林>
結末は150年後かもしれないですね(笑)
<檸檬のお洋服>の写真
<遠山>
ちょっと最近気にっているものをお見せしますね。
これ…「カワイイ」と「なにこれ」という2つの反応があるんですが、これは「檸檬のお洋服」なんです。
われわれ瀬戸内の豊島で「檸檬ホテル」という作品をやっているんだけど、そこで販売するお土産品としてニッタ―さんに編んでもらったのね。
現地に行って「かわいい」と思ってうっかり買う、東京に戻ってきて誰かにあげる、「何?これ」と聞かれて「檸檬のお洋服よ」っていう、みたいな。
これって、四コマ漫画のようなオチになりそうでなっていないというか。アートとビジネスの中間くらいなイメージ。少なくともマーケティングからは「檸檬のお洋服」は生まれないし、クライアントあっての解決にもなっていない。こういうことを、スマイルズやスープストックトーキョーは大事にしたいな、と。
本当の価値って何っていうことを提示する側が、まず価値を感じないことには提示しようもなくて。
だからアートを身近に感じながら、そこから学べることを学んでいきたいなと思っているんですね。
ゴッホやゴーギャンが生きた時代から、現代のコンテンポラリーアートまで時代を行き来しながらも、そこに共通する価値観や考え方などが見えてきたトークセッション。
「アート」や「芸術」というとなんだか手の届きにくいもののような感覚もありますが、自分自身の興味と結びつけて捉えることで作品の楽しみ方は何倍にも広がります。
林綾野さんの場合は「食」。ほかにも「インテリア」や「音楽」を切り口に見てみるのも面白いかもしれません。
トークセッションのあとは、Soup Stock Tokyoにて10/24から販売開始している“ゴッホ”と“ゴーギャン”のふたつの麦畑のスープとともに、フードプランナー桑折敦子がアルルの食卓をイメージした料理を参加者の皆様にお楽しみいただきました。
「ゴッホとゴーギャンはどんな食事をしていたのだろう」「当時のアルルでは、どんな料理が食べられていたのだろう」そんなことを想像しながら料理をするのも、アートの楽しみ方の一つかもしれません。
この日は、詩人の菅原敏さんも参加してくださっておりました。
菅原さんには、今回「Soup Stock Tokyo MUSEUM」のナレーションを担当していただきました。
※「Soup Stock Tokyo MUSEUM」とは
今回新たに作ったゴッホとゴーギャンの麦畑のスープやこれまでに作ってきた数々の作品(スープ)について、開発秘話やその背景にあるストーリーなどを音声ガイドにて楽しんでいただける、スープの美術館です。
さらに、その場で詩を即興で朗読してくださるという、スペシャルサプライズも。
今回の「おいしい教室」を通して、「アート」を身近に感じたり、自分なりの楽しみ方を見つけるきっかけになれば嬉しく思います。 私たちSoup Stock Tokyoは、一杯のスープを通してアートの世界を覗いてみたり、世界の食文化に触れてみたり、食事を楽しむだけではない価値をつくり続けていきたいと考えています。
次回のおいしい教室も、どうぞお楽しみに。